8BEATを終えて - 新生した姿を見て、過去の幻影を追う

KANJANI∞ Re:LIVE 8BEATを観た。関ジャニ∞を好きになって四年目、GR8ESTから通い始めて三つ目のコンサートだった。

今回のコンサートは、一年九ヶ月の沈黙を経て、五人の関ジャニ∞が出した答えであり、グループとして何に重きを置くか、今後グループとしてどう生きていくかを示すものだと捉えている。47都道府県は、「メンバーがまた一人脱退した関ジャニ∞」としてのコンサートだったため、五人の安定期に入った関ジャニ∞が作るコンサートとしては、初めてのものだった。

何より、公演全編を通して、めちゃくちゃ踊ることに驚いた。無責任ヒーローやイッツマイソウルまで一曲通じて踊っていた。町中華もYESもLet Me Down  Easyも全てダンス曲だった。踊れる曲は全て踊っていた。関ジャニ∞はアイドルであり、全力でアイドルをしていこうとしていることが痛いほど伝わってきた。あまり踊らなかったすばるくんと亮ちゃんが抜けたからこそ、こんなにもバリバリ踊れるようになったようにも思えて、少し切なかった。

五人になって二年が過ぎたが、私は未だに、七人、六人時代の幻影を追い続けていたことに気付いた。コンサートで五人の姿を生で見て空気感を肌で感じて、五人で完全体になった関ジャニ∞に着いていけなかった。

私はすばるくんや亮ちゃんの居た頃の、いびつな歪み方をしている尖り切ったアイドルらしからぬ関ジャニ∞のことが好きだった。怒号のように歌う渋谷すばるの歌声が好きだった。渋谷すばるの魂を受け継いで、怒鳴り散らすように歌う錦戸亮が好きだった。アイドルの枠から溢れ出していってしまった彼らがグループにもたらしてくれる、触れると感電しそうな危うさが、割れた破片のような鋭さが、火傷しそうな剥き出しの熱さが大好きだった。そして、六人、五人になった関ジャニ∞の、火事場の馬鹿力と、血みどろで泥まみれになりながらも前へ進む姿にとっても感銘を受け、恋焦がれ、惚れ込んでいた。アイドルとしてはあまりに不恰好な関ジャニ∞が大好きだった。

暴論になるが、私はグループとしての関ジャニ∞に対しては、"アイドル"の面を然程求めていなかったことに気付いた。私は、イケメンカメラ目線スポーツ・いきなりドッジと、METROCK 2017を観て、関ジャニ∞のファンになった。私は、アイドルらしかぬバラエティをする、アイドルらしからぬバンド演奏をする、そんな関ジャニ∞のことを好きになった。アイドルの枠からこれでもかと言うほど外れて、カウンターカルチャーど真ん中を全速力で爆走する、そんな関ジャニ∞のことを好きになった。あの頃の関ジャニ∞は、バンドとバラエティの二つの軸を中心に売り出されているように見え、私はそこを好きになった。

 


KANJANI∞ Re:LIVE 8BEATを観て、関ジャニ∞が、アイドルの枠のなかに収斂したと感じた。アイドルとしていびつな形だった関ジャニ∞が、角が取れて丸くなっていた。火傷しそうな危険な熱さは消え、心地よい穏やかな温かさに変わっていた。血塗れで泥まみれの身体はすっかり綺麗になっていた。私が見てきた関ジャニ∞の姿とは、全く別の姿がそこにあった。

私はとても新しいファンなので、もっと昔からファンの人は、彼らのアイドル的な側面をも沢山見ており、そこを好きになっている人も多いのだろう。その人たちは、今回のコンサートも、私が抱いた感覚とは全く別の感覚で観られているのだろう。関ジャニ∞がバンド演奏をしていないコンサートをしていたことを、私も勿論知っている。多面体であるアイドルのどの面を好きになったかが、いつの時期を好きになったかが、かなり重要なのかもしれない。

関ジャニ∞は、嵐やV6、TOKIOが居なくなり、事務所全体を考えたときに、王道アイドルとしての側面をも担っていかなければならなくなったのかもしれない。グループとして何に重きを置くかを考えたときに、一番重きを置きたいのがアイドルとしての姿だったのかもしれない。バンド曲が少なかったのは、錦戸亮が抜けた穴を、まだ五人では塞ぎ切れていないからなのかもしれない。でも、二年弱の時を経て五人の関ジャニ∞が出した答えが"アイドル"なのであれば、私も関ジャニ∞との付き合い方を考えなければいけないな、と思った。

ただ、関ジャニ∞にアイドルを求めていないとは言いながらも、全力でファンサービスをする丸山隆平さんのアイドル姿は大好きだ。今のところこの自己矛盾は解決出来ていない。

 


関ジャニ∞との付き合い方を考え直してみても、離れることは考えられない。好きだったものを、もう好きじゃないとは、簡単には言えない。関ジャニ∞がバラエティとバンドを辞めた訳ではない。私が好きな関ジャニ∞の姿はこれからも、きっと沢山見れると思う。

私はHigh Spiritsに代わるインスト曲をずっと求めていたが、今回のアルバムでは最高の形でそれが叶った。インスト曲が欲しいというニッチなニーズにも応えてくれることが、置いていかれていないことが、とても嬉しかった。私の望むものと、彼らが提供したいものが一致していることが、嬉しかった。

それに、私は五人の関ジャニ∞のこともちゃんと好きな自信があった。七人時代の無傷で完全な強さの関ジャニ∞の姿はもう二度と見れないし、六人時代の歪な輝きの凄まじさも過去のものだけど、五人になっても新しくて素晴らしい世界を見せてくれている。どんな大きな喪失を経験しても、らしさを失わずにしなやかな強さで輝き続ける関ジャニ∞のことを、とても素敵だと思う。

今の関ジャニ∞の五人とは、共に大きな喪失を経験した。荒れ狂う戦火のなかを、手を取り合って共に生き延びた。だけど、混乱の時期に出会い一緒に過ごした人とは、安全な場所に辿り着いて暮らしが始まると、今までと同じ関係でい続けることは、案外難しいことなのかもしれない。

 


 

ジャニーズのファン層はスペクトラム式に、大きく三層に渡って広がっていると思っている。一番熱心なファン層は、供給されたコンテンツの全てを喜んで消費する層。次に、コンテンツが好みのものであった場合にのみ消費する層。その次がお茶の間。私は最初一番目の層のファンをしていたが、いつの間にか二番目の層のファンになりつつあった。好きな気持ちは変わりなくても、自分の人生の都合で常には追いかけられなかったり、気持ちが追いついていかなかったりもする。いつも最前線で追いかけ続けるファンでいなくても、自分のペースで応援し続けるファンでいれたら、それでいいかなと思う。

ジャニオタだから自担も自軍も推す/降りるの二択しかないと考えていたけれど、ジャニーズのアイドルのことも、好きなバンドをリリースごとに追わなくても数年ぶりにふらっとライブに行ったりするみたいに、そんな気持ちで細く長くゆるく好きでいてもいいのかな、とも思う。

 


私は8BEATのコンサートの初見では、アイドルとしてのコンサートを全力で成し遂げる関ジャニ∞の姿に面食らい、どう応援していいのかが分からなくなった。七人、六人時代の幻影を追ってしまい、五人の関ジャニ∞の姿に戸惑ってしまった。だけど、私は五人の関ジャニ∞のことを、マイペースながらもまだまだ応援し続けたいと思った。まだまだ変化に戸惑うことはあるかもしれないが、緩やかに長くこれからの関ジャニ∞の姿も見届けていきたい。

One Love出の重岡担になった話

重岡大毅さん、28歳のお誕生日おめでとうございます。


私は、なにわの日 One Love出の重岡担です。
絶対One Love出の重岡担いっぱいおるやろ!と思ってるんですが、なかなか見かけなくて悔しい!ので、ブログを書くことにしました。これは重岡大毅さんへの沼落ちブログです。
 
私はエイト担かつセクゾ担です。担当を“降りる”という概念は、私のなかでは成立し得ないようなので、新たに掛け持ちをするという形で応援をし始めております。アイドルは何人好きになってもいいので最高!
 
 
重岡くんの第一印象は、「歯ぁ多い人」でした。ジャニ勉で関ジャニ∞から歯ぁ多いイジリをされているのを見たのが最初でした。関ジャニ∞が重岡くんのことを「重岡」と呼ぶので、私も多くのエイト担と同じく、いつの間にか重岡くんのことを「重岡」と呼ぶようになっていました。
 


重岡のことは、「絶対好きだから直視しないようにしよう」と思って生きてきました。
数々の奇行エピソードとトチの狂った言動は、他のグループのオタクとして生きていても、しばしば耳に入ってきていました。ブランドのロゴをガムテープで隠して出てきたエピソード、ラジオの10回クイズでメンバー相手に大暴れしている様子、菊池風磨くんが週に一度美容院に行くことを「塾」と形容したこと。重岡の言動を見聞きするたびに、重岡のことが少し気になっていました。しかも、あの鉄壁アイドルの中島健人くんと仲も良いらしい。間違いなく明るいのに、佇まいからどこか陰も感じる。「WESTやったら重岡やな~」と思いながら、確実に好きなタイプであることは頭で理解しながらも、特に大きなきっかけもなかったため、歌番組などで遠目から観察する日々を送っていました。あの日までは。

 

 

なにわの日、One Loveを歌い上げる重岡を見た瞬間、落雷のような衝撃が走りました。抗いようもなく、一瞬で恋に落ちました。
泥臭く男臭く歌い上げる姿、格好つけない格好よさ。キラッキラで眩しいその表情。大股開いて二本足でしっかりと大地を踏みしめて立つ、大木のような逞しさ。立ち姿、つまり世界に対する構え方すら、泥臭くて男らしくて途轍もなく格好良い。愛の歌を泥臭く歌い上げる姿に一瞬で引き付けられ、その日は重岡のことしか見ることが出来ませんでした。
当時、仕事の忙しさに負けてジャニオタの心を失いかけていた私を、強力な力で、一瞬で引き戻してくれました。重岡のOne Loveは、オタクとして死にかけていた私への、王子からの口付けでした。ほんの一撃でオタクとして完全に息を吹き返し、重岡のことを追い始める日々が始まりました。
 


インターネットの海を探し回って証拠の初回Bを、それからWESTV!!とWESTivalを購入しました。DREAM ISLANDのジャニーズWESTの配信を観ました。Paraviに登録し、パパジャニを観始めました。フォロワーの重岡担から、過去のラジオ音源を送ってもらって聴きました。
 
恋の始まりは、なんて楽しいのでしょう。何につけても重岡が頭を過りました。酒を飲んでは「重岡ってお酒とか飲むんかなぁ」と呟き、イナズマ戦隊を聴いては重岡を感じて恋焦がれました。同世代で同じ関西出身、それだけでリア恋の心が爆走しそうで、どうしようもなく気が狂いそうでした。


頭のなかで「男友達の重岡」というイマジナリーフレンドを作り出し、よすがにして生きました。男友達の重岡と最終的に結婚する人生以外の人生はくそ喰らえ!という気持ちになっていきました。毎日男友達の重岡の妄想を繰り返しました。夢の中では男友達の重岡から交際の提案を受けて、目覚めてからも夢心地が続きました。
 


脳内で作り出した「男友達の重岡」だけではなく、生身の人間としての、アイドルとしての重岡大毅にも強く惚れ込んでいきました。
立ち姿さえも大好きになりました。二本足を大きく広げて強く踏ん張り、腰を落として歌うところ。魂の熱さが、泥臭さが、男らしさが、立ち姿に現れている様子。泥臭く渋く男臭く歌い上げるその姿。力強く鍵盤を弾く姿。屈託のない笑顔、万華鏡のようにくるくる変わる表情。静かに集中しているときの横顔。男性性の強さを感じる圧倒的な包容力と、常に子供目線に立って言動できるところ、その両者が共存しているところ。優しくて柔らかい言葉遣い、周りを笑顔にする奇行の数々。
 

たった一か月で、みるみるうちに重岡くんにメロメロになっていきました。重岡くんの健康さに憧れ、手を抜いていた自炊を数ヶ月ぶりに再開し、一年ぶりにスポーツジムに再入会しました。重岡呼びだったのに突然重岡くんと呼び始めたら、恋心を認めたみたいで恥ずかしいと思い、呼び方を変えるのに苦戦しています。

 

炎のような熱さも、太陽のような圧倒的な光も兼ね備えている、真っ赤っかのエネルギーの源のような重岡くん。その魂の熱さが、放つ光の眩しさが、それでいて優しさと柔らかさを兼ね備えているところが、泥臭さと男らしさが、そして言動の奇天烈さとぶっ飛び具合が、とっても大好きです。


重岡くんの一年間が、沢山の幸せで満ち溢れたたものになりますように!
その幸せの片鱗を少しでもお裾分けしてもらえたら、ファンとしてこんな幸運なことはありません。まだ好きになってたった一ヶ月だけれど、二十八歳の重岡大毅にも本気で惚れ込ませていただきます。

二十八歳の重岡大毅さん、一年間よろしくお願いします。

祝いの言葉、呪いの恋文

関ジャニ∞ニューシングル「友よ」の発売、おめでとうございます!

そして、少し早いけれど、丸山隆平さん、36歳のお誕生日おめでとうございます。

今年も変わらず丸山さんのことが好きで、お誕生日をお祝い出来ることが嬉しいです。そして、ニューシングルの発売を祝うことができて、本当に、本当に嬉しいです。

 

書こう書こうと思いながらも書いていなかった、いわゆる“沼落ちブログ”と、いま思い浮かぶ愛の言葉を、この機にしたためます。

 

 

関ジャニ∞のことは、デビューした当初から、ずっと少しだけ知っていました。

地元からジャニーズのアイドルがデビューしたと知り、クラスの友達や家族と大騒ぎしました。好きやねん、大阪。も、大阪レイニーブルースも、使い方を覚えたばかりのレンタルショップで借りました。好きやねん、大阪。の振り付けを休みの時間に友達と一緒に踊ったり、桜援歌を口ずさみながら自転車に乗って林間学校のおやつを買いに行ったりしました。地元の商店街には、「商店街は関ジャニ∞を応援しています」という言葉とともに、∞SAKAおばちゃんROCKが延々と流れていました。インターネットで知り合った友達は「プリンがパーン!」を連呼していたし、塾で知り合った友達から勧められてHeavenly Psycho、プロ∞ペラ、オニギシを聴いたりもしていました。それだけ環境が整っていたのにも関わらず、関ジャニ∞のオタクとしての人格がどうして目覚めなかったのか、思い返すと不思議でなりません。

 

私はほとんどテレビを見ない生活を送っていたので、関ジャニ∞は勿論、ジャニーズの出演番組を見る機会も全くといっていいほどありませんでした。早くに持たせてもらった携帯電話で、友達のあいだで流行している楽曲を聴くくらい。そのあと私はいわゆる邦楽ロックの音楽が好きになって、ジャニーズとは縁遠い生活を送っていました

 

2015年夏、アルバイト先で流れていたFNS歌謡祭で、関ジャニ∞ががむしゃら行進曲を歌っているところを偶然目にしました。えらい楽しそうに歌う人たちやな、全員まるっと表情が良い、みんな楽しそうやのに錦戸くんは微妙な表情をしているところがこれまた良い、渋谷さんってこんなに良い表情で歌う人なんや、横山くんめっちゃ一生懸命やん、丸山くんはちょけるタイプの人なんやな、大倉くんって鳥貴族の人やっけ?表情から育ちの良さが滲み出てるわ…、そんなことを思いながら見ていました。THE MUSIC DAYも観ました。とにかく明るい安村が出てて、ワッハッハーを歌ってるやつ。あと2016年夏には罪と夏を歌ってる歌番組も観ました。美輪明宏が舞ってて、水着を着たお姉さんたちが出てくるやつ。全部アルバイト先でやけど。関ジャニ∞はいつもものすごく楽しそうに歌っていて、見かけるたびに私のなかで関ジャニ∞の株が少しずつ上がっていっていた気がします。ジャニーズは大して興味ないけど関ジャニ∞はいいな、好きになるなら関ジャニ∞やな、という気持ちが、少しずつ、でも確実に、積み重なっていっていたように思います。

 

レンタルショップで借りた十年ぶりに借りた関ジャニ∞のCDは、「関ジャニ∞の元気が出るCD‼」でした。2015年11月15日の朝、CDTVで取り上げられていたことから知りました。サンボマスター銀杏BOYZが楽曲提供をしていると知り、すぐにiPhoneのメモ機能を使って、曲名とアルバム名を控えました(そのときのメモがいまだに残っていて、私はそれを自分のオタ史料としてとても大切に思っています)。サンボマスター銀杏BOYZも、ワンマンライブに通うほど大好きなバンドだったので、すぐにTSUTAYAに走りました。ついでに唯一出ていたベストアルバムの8ESTも借りて、iPodに初めてジャニーズの楽曲を入れました。私はジャニーズというものへのハマり方を知らなかったので、このときも楽曲を聴くだけの楽しみ方で終わりました。今となっては、このときにもう少ししっかりハマって、関ジャニ∞のオタクになっていたら、七人の姿を追うことが出来たのに…と思います。

 

関ジャニ∞のオタクになった決め手は、泥棒役者の番宣に出演する丸山さんの姿でした。ちょうど二年前の十一月、私は現実世界から逃げ出すために衝動的に一人で旅行に出掛け、知らない土地でしこたま梯子酒をして帰ったホテルで、丸山さんが番宣で出演する番組の予告を見かけました。私は、思うように上手くいかない現実から目を逸らすための逃避先を、情緒的に依存できる対象を、無意識に探し求めていたのでしょうか。それとも、さっきまで酒を飲んでいた居酒屋で、一人の私に光GENJIの音楽が寄り添ってくれ、ジャニーズというものの存在を思い出したからでしょうか。ビジネスホテルの小さなテレビ画面に映る貴方の姿に、私はなぜか釘付けになったことを、今でも鮮明に覚えています。

番宣に出ているあなたの姿を追うところから、私の丸山担としての生活は始まりました。なんとなくずっと気になっていた関ジャニ∞。なぜか惹かれる丸山隆平さんという存在。映画は公開日の翌々日に最寄りの映画館のレイトショーで鑑賞して、嗚咽をあげて大泣きして帰りました。一生懸命に生きようとは試みてはいるものの、もうにっちもさっちもいかなくなっていた頃だったので、優しい物語が沁みました。

 

 

ちょうど同時期に、関ジャニ∞クロニクルという番組の存在を知りました。もうおしまいです。最初に観たのは、イケメンカメラ目線スポーツ。一人暮らしの家のなかで、はじめて声を上げて大爆笑しました。いきなりドッヂとイケメンカメラの過去動画を、時間の許す限り一日中漁りました。観れるものはすべて観ました。関ジャニ∞を観ているあいだは、現実を生きるの不全感をすべて忘れることが出来ました。

 

そこからは早かったです。過去のアルバムをすべてレンタルショップで借りてき、出演番組を追い始め、ファンクラブに入り、ジャニオタとして呟く用のTwitterアカウントを始動させました。旅先のテレビで丸山さんの姿を観かけたのは2017年11月1日、関ジャニ∞FCに入ったのは2017年11月30日。すべて2017年11月に起こった出来事。たった一か月で怒涛の沼落ちをキメました。木々の葉が色付くと、関ジャニ∞に、丸山さんに恋をした季節が来たなと思います。私にとっては、秋が恋の季節です。

 

 

関ジャニ∞なら丸山さんが好きだな、という予感は、なんとなくずっとありました。予感が確信に変わったのは、一枚の写真を見たときだったように思います。ウインクしながら素っ裸で飛び跳ねて股間部のみベースで隠されている写真を見て、「この人だ」と思いました。股間部のみ薔薇の花束で隠した直立不動の姿勢で新聞に載っている姿にも見惚れました。私はどうやら男臭い裸体に弱いようです。明るく元気なパブリックイメージとは裏腹に、なんとなく陰を強く感じるところ。柔和な表情と、瞳の翳り。頑丈な体つきと、柔らそうな腹部。甘い歌声と力強いがなり声。姿を見れば見るほど、歌声を聴くほど、そのすべてがツボでした。毎日正午に更新されるWebページを見るたびに、一ファンとして愛されている実感を持ちました。顔を見るだけで、声を聴くだけで安心出来ました。伝説の陰毛みくじエピソードも、私が恋に狂う一因だったように思います。ファンに愛を届けてくれる安心感、一瞬先に何をしでかすか分からない不安定さ、もう完全にメロメロでした。

 

関ジャニ∞が、バンド曲を沢山出していて、くたびれた心に効く歌を沢山歌ってくれていたのも、大好きになった理由でした。ぐちゃぐちゃでなんとか毎日を生きている私には、歌詞も刺さりました。「デコボコでもデタラメでもメチャクチャでもいいから」「がむしゃらに踠くその手にキッカケの糸がかかる」「過ぎ去った旋風を翻す反撃の好機へ」「踏み出した一歩は歪でも宝だった」「挫折に絆創膏貼って平気なフリしてく」、楽曲に沢山勇気づけられました。関ジャニ∞の音楽を大好きになったことが、関ジャニ∞を大好きになった理由の一つです。

 

 

私が関ジャニ∞のことを大好きになってから間もないころに、すばるくんの脱退会見がありました。七人の関ジャニ∞のことをリアルタイムで追うことが出来なかったこと、今でも思い出すととても悲しくなります。でも、六人の関ジャニ∞を観るのに間に合ってよかったな、たった一年間しかなかった関ジャニ∞の六人時代を存分にこの目で追うことが出来て良かったな、とも思います。私はまだまだ、関ジャニ∞とは別の道を選んだ二人に対して気持ちの整理がつかない部分も多くて、どんな気持ちでいたらいいのか何がなんだかわからなくてモヤモヤしてしまうことも多いけれど、この気持ちとはゆっくり気長に付き合って少しずつ消化していけたらいいな。突然ぶり返したように喪失感が襲ってきたり、悲しみの濁流に呑み込まれて押し流されてしまいそうになるけれど、同じオタク友達や関ジャニおじさんたちに浮き輪を投げてもらったり手を引っ張ってもらったりしながら、関ジャニ∞のオタクとしての生命を長く続かせることができたらいいな、と思っています。

 

 

たった一年半のあいだに大きな大きな変化を経験しても、グループとしての歩みを止めることなく進み続ける選択をしてくれて、本当にありがとう。泥まみれの血みどろになりながらでも這い蹲って生きてくれる関ジャニ∞の生き様が、本当に本当大好き。自分にとってどれだけ大切なものを失おうと、どれだけ大きな別れを経験しようと、それでも生きている限り人生は容赦なく続いていくけれど、関ジャニ∞はそれでも休むことも止まることもせずに頑なに突き進んでいってくれるところ、本当に愛しています。

まだまだ好きになってたった二年しか経ってないけれど、私にとって関ジャニ∞は人生です。関ジャニ∞を通じて知り合った友達のことも、同じ悲しみや楽しみを分かち合って乗り越えた大切な仲間だと思っています。関ジャニ∞を想って文章を書くと、関ジャニ∞の歌詞のフレーズばかりが思い浮かんできて、自分の言葉じゃくなる気がして少し悔しい。関ジャニ∞のオタクを一緒にしていた友人のなかには、関ジャニ∞から離れてしまった人もいるけれど、人生の一期間を共に過ごした仲間のように思っています。

 

私は関ジャニ∞のことを好きになった二年前よりも、もっとずっと関ジャニ∞のことが、丸山さんのことが大好きです。私も将来的には最強のおばはんになれるように、今はまだまだ這い蹲って泥を食って砂を噛んで生きていこうと思うので、おっちゃんたちにはその格好良くて泥臭い背中をまだまだたくさん見せ続けてほしいな。関ジャニ∞を心の盾にしながら、まだまだ自分の人生に食らいついて生きてやるぞ。歯が全部折れても歯茎の力で食らいついてやるねん。おっさんらを追いかけながら、私もそういう気概で生きていきたいな。

 

非常に長くなりましたが、丸山さん36歳の誕生日おめでとうございます!そして、関ジャニ∞43枚目のシングル「友よ」発売おめでとうございます!

関ジャニ∞のおっさんらのケツを追っかけるためなら、地獄の果てまでついていける気がしています。これって、愛かな?

 

36歳の丸山さんのことも、五人体制の関ジャニ∞のことも、時間と心身と金銭の許す限り、全力で応援させていただきます。

Sexy Zone、それは思考が奪われ、記憶が飛ぶ現場。

Sexy Zone Tour 2019 PAGESが良すぎた。おびただしい量の最高を浴びせられ続けて、正気を保つのに必死だった。興奮の鈍器で強く頭を殴られ続けて半分気絶していたので、公演中の記憶を殆ど失ってしまって本当に悔しい。これ以上記憶を失わないためにも、あのとき感じた興奮を言葉に置き換えておきたい。

 

Sexy Zoneに片足突っ込んだのは昨年度末。関ジャニ∞の現場、GR8ESTの追加公演が終わってオタクとしても一息ついていた頃、TLセクゾの新曲が良すぎると話題になった。そう、「カラクリだらけのテンダネス」。私も曲を聴くなりハートを撃ち抜かれた。曲が良すぎる。どうやらPVも最高に良いっぽい。若いグループに惹かれつつあるという事実を否認したい私は、「曲が良すぎるから仕方がない」と自分に言い訳をして、初めて関ジャニ∞以外のグループのCD購入した(関ジャニのファン歴自体も当時で一年と少しであり、かなりジャニオタとしての歴は浅い)。そして、曲の良さとPVの良さ、トドメに中島健人様の凄まじい顔の良さにトリプルパンチを喰らい、瞬く前にSexy沼に撃沈した。テンダネスのCDを買った数日後にファンクラブに入金し、ちゃんと追っていなかったドロ刑のダビングをオタク仲間から送っていただき、スキマ時間でSexy Zone Channelを漁った。こうして私のセクラバとしての生活は幕を開けた。

 

私はきっと、アイドルという職業に、ジャニーズ事務所に、自分の魂を丸ごと売り飛ばしたかのようなアイドルスタンスの人が好きなんだと思う。だから中島健人くんにものすごく惹かれた。しかも私は彼と同い年。私が中学二年生だった時、彼も遥か遠くの知らない街で中学二年生をしていたという事実。同じ速度で、同じ歩幅で、毎年一歳ずつ年を取っているという事実。それを思うだけで気がおかしくなりそうだった。これを書いている今だって、興奮と絶望の入り混じった、混沌とした感情に溺れそうになりながらパソコンに向かっている。私は中島健人くんと同じ人間であるという事実が、同じ歳であるという事実が、嬉しくて苦しい。

 

そんなことはどうでもいい。私はセクゾの初学者としてオタク活動を始めた。年明けにはニセコイの舞台挨拶応援上映が当たり、慣れない新宿に繰り出して初めての生ケンティーを拝んだりもした。そして、その麗しさに卒倒し、インフルエンザにひと月のうちに二回かかったりもした(言い過ぎた。これらに因果関係はない)。

 

そうこうしているうちにツアーが決まり、チケットが当選し、大阪城ホールにお呼ばれした。名古屋京セラ東京ドームにしか入ったことがなかったので、初めてのアリーナツアー、はじめてのSexy Zoneに胸が躍った。メンバーカラーの服を着た人間の少なさ、ファン層の若さなどに度肝を抜かれながら、関ジャニ∞を通じて知り合ったオタクの友人と一緒に会場に入った。初のセクゾ、初のアリーナツアー、そして手には自名義のチケット。

 

いざ発券すると、そこには「アリーナ Aブロック」の文字が。半狂乱になりかけながら場内にログインした。しかも真横と真後ろが通路。荷物の整理をしていたら、係のお兄さんから「荷物は椅子の下でお願いしますね」とにこやかに言われた。もしかして、この通路をトロッコが通る?考えるだけで気が触れそうになった。平静を装いながら着席した。ステージとの距離がおかしい。距離感が学芸会。参観日。もしかして、JR京橋駅の対岸のホームよりも近いんじゃないか?そんなレベルだった(帰路で確認したけれど流石にそこまで近くはなかった)。「失神か失禁をしてしまいかねない近さ」、私は友人にそう言い放ち、開演を待った。例えの表現が全くSexyではないのはご容赦願いたい。

 

 

そして開演。開演と同時に気が狂った。なんてところから出てくるんや。私たちはどこを見たらいいんや。初速から全速力でぶっ飛ばされて、必死で掴まっていても心身がぶっ飛んでいきそうだった。目の前で起こる現象を、すこしでも取りこぼさないように視覚と聴覚をフルに使って受け取ることに必死だった。だいたい、一曲目からテンダネスっていうのがどうかしている。最高すぎて気が狂う。ただでさえ気が触れそうなのを堪えるのに必死なのに、どうしてタレントが客の海を泳ぐ?本当にファンが失禁したらどうしてくれるのか?客の海を泳ぐ演出、自宅にて映像で見ただけで死にかけていたのに、それが目の前で繰り広げられている?本当に?大丈夫なのか?メンバーが近くの花道を通るたびに私は奇声を上げた。自分のブロックに近づいてきたケンティーは目の前に来ることなく舞台上に戻っていった。危なかった。彼と私の人生がほんの一瞬だけ交わるところだった。そんなことがあってはならない。身分違いの恋の気持ちで応援することで、なんとか正気を保って生活を出来ているから。良かった。

 

圧倒されていると、一曲目終わりに全員が撃たれた。そんなことがあるのか?たった一曲を歌い終わって、突然撃たれる演出?嘘やろ?マジで!?!?!そう思っていると、衣装が変わり、二曲目が始まった。一曲で衣装変わんの?まじで?ほんまに?混乱しているあいだにもコンサートは進む。私は、目の前で繰り広げられる最高を、なるべく取りこぼさないように受け取ろうと必死になった。

 

セクゾのコンサートは、あまりにも一瞬一瞬が最高すぎた。人間の脳の限界。あまりにも最高すぎるものを浴びせられ続けると、人は記憶が飛ぶらしい。よくわかった。トラウマティックな出来事なんかは目に焼き付いて離れなくて、どれだけ忘れたくても忘れられないものなのに、墓場まで鮮度100%で持っていきたいような忘れたくない最高の光景は、どうしてこうもすぐに忘れてしまうのだろう。私は最高の空間に身を置きながら、人間の脳と身体の仕組みを呪った。

 

特にメドレーがやばかった。記憶がない。とめどなく降ってくる“最高”に溺れないように、必死でもがいた。トロッコに乗って次々にやってくるメンバーを、プールの水中から太陽の光を見るような気持ちで見上げた。自分でも何を言っているのかわからない。全員が真後ろの通路を通過した。マリウス葉が放った天使の投げキッスを頭から浴びた。菊池風磨のすました表情から白い歯がこぼれた。それはまるで、濡れた花びらから一滴の雫が落ちる瞬間のようだった。佐藤勝利の顔の良さに魂が打ち震えた(小学生のコスプレは可愛すぎて「萌え」の権化だった)。頭上を何度も通過する中島健人を祈るような気持ちで拝んだ。彼がトロッコで真上に来たとき、このまま時が止まればいいのにと思った。

 

距離の近さばかりに言及してしまったが、演出構成展開が本当に凄まじかった。例えるならば、蓋を開けるたびに違うものが出てくる魔法の宝箱のような演出で、時速200㎞で走り抜けるジェットコースターのような構成だった。50メートル走のスピードで3000メートルを完走しているかのようなステージだった。すべての曲が見せ場で、すべての瞬間が最高だった。あまりにも盛り沢山すぎて、はじめてライブの2時間半を長く感じた。それほどまでに濃密だった、すべてが凄まじかった、えげつない量のアドレナリンが分泌された。強すぎる四人が並ぶ光景を見て、聡ちゃんが戻ってきたときの爆発力を想像して恐ろしさすら感じた。絶対最強になる、時代をつくるどころか、世を統べるんじゃないだろうか。そんなことを考えながら、くるくる変わり続ける目の前の景色を眺めていた。これでもかというほど作りこまれた演出構成展開に、一人一人のパフォーマンスに圧倒された。本編終演時の映像には、新参者ながらも涙してしまった。

 

 

全編ノーカットで走馬燈で見たいようなライブだった。あまりにも良すぎた。翌日からしっかり労働で、新年度から仕事の負担が増えたが、「まぁSexy Zone最高やったし、いっかぁ☆」の気持ち一つで一か月間すべてを許せた、精神の安寧が保たれた。本当に最高のライブだった。

横アリでも一公演、Sexyを浴びさせていただいた。バクステ側から演出の全貌を把握できる座席で、失われた記憶を補完すべく、五感を総動員して目に耳に脳に懸命に焼き付けた。二度目のSexyも最高だった。二回だけじゃ足りなかった。もっともっと見たかった。

 

 

私は嬉しいことにSexy Zoneと同世代なので、彼らが「時代を作る」「令和はSexy Zoneの時代に」と何度も言っているのを見るたびに、私も少しは頑張らなくてはと思う。Sexy Zoneがアイドル界の、ジャニーズ界の、芸能界の次の時代を作っていくように、私だって自分の働いているフィールドで頑張って力をつけて、次の良い時代を作っていけるように日々を過ごすぞ。今の未熟で非力な私では、そうなれるのはほど遠いけれど。私も私なりに次の時代をつくる一助となれるような働きが出来るように頑張るから、Sexy Zoneは活躍する姿を見せて幸せと元気を与え続けてね。烏滸がましいかもしれないけれど、一緒に次の時代をつくろうね。Sexy時代の目撃者に、証人になれるように、辛くても悲しくてもまだまだ死ねないぞ。

 

また季節が一巡して桜が咲くころ、今より少しだけ成長した姿で会いにいけるといいなぁ。それまでは血みどろになりながらでも頑張ろう、生きてやろう。

映画 羊の木が面白かった。

羊の木が面白かった。

 

「社会的な側面を持つ映画」と唄われているけど、そんな一言で終わらせるには勿体なさすぎる。思うところが多々あったので垂れ流します。偉そうな文体で長々と書いてしまった。暇で暇で仕方のないときにでもお読みください。

 

以下、ネタバレ注意。

 

*******************

 

設定について。「地方自治体が身元引受人となることで受刑者を仮釈放し、刑務所のコスト削減と地方の過疎化対策を図るという国家プロジェクト」(Filmarks記事より引用)という設定は、現実の延長線上のように感じられてとてもワクワクした。現実にも、刑務所から地域社会へのスムーズな移行や就労を支援するべく様々な取り組みがされているらしいので、すごくリアル(関連記事 京都刑務所と京都女子大が包括連携 学生から木工製品アイデア提供など - 烏丸経済新聞社説:上昇する再犯者率 地域で積極的な防止策を - 毎日新聞)。とても現実味があるおかげで、どうすれば安全を担保しながらこの政策を現実に適用させられるか、また現実との相違点についても少し考えてしまった。

大前提の全否定になってしまうけれども、何よりも、小さな町に殺人犯を六人も送り込むのは良くない。殺人犯なんて暴力性の高いであろう人たちを一気にぶち込んだら結果は目に見えている。窃盗とか交通犯罪とか薬物事犯とか詐欺罪とか、個人個人の有する犯罪歴をバラエティ豊かなものにしたら結果としても面白いものになるかもしれないな、そして少しは実現可能になるかもしれない、なんてことを思った。あと、受刑者を刑務所から社会へ移行させる役割の保護観察官とか保護司みたいな役割の人間が一切出てこなかったことに違和感を覚えた。これらを配置させたらより現実味が増したように思う。

 

…なんてことを偉そうに思いながらも、全体を通してめちゃくちゃ面白かった。

 

まず、緩やかに長く続く不穏さを演出する、ひとつひとつの音楽と描写。いつ何が起こってもおかしくないと感じさせる演出が最高だった。不安感を煽られすぎて常に最悪の場合を想定しながら観た。終盤の宮腰が月末の自宅に上がる場面では、宮腰がいつ月末家の包丁を持ち出して殺しにかかるのかとドギマギしたし、ラストののろろが引き上げられたシーンでは宮腰の水死体がくっ付いてくるのではないかとオドオドした。慢性的な恐怖に晒され続けると思考パターンがどんどんネガティブになっていくことを、身を以て実感した。最初から最後までのヒヤヒヤハラハラ感が絶品。

 

 

そして、不穏さを醸す演出に多少埋もれながらも、月末をはじめとする魚深市民らと元受刑者との関わりがとても繊細に描かれていたと感じている。特に、魚深の人たちとの関わりのなかで元受刑者らが「受け入れ」られるか否かについての描写がとても丁寧だったように思う。

 

福元(水澤紳吾)は、早い段階で同じ床屋店主に受け入れられる。受刑者だということがバレたかもしれないと怯えるが、同じ元受刑者の立場である店主との出会いにより、自身の犯罪歴をも受け入れてもらえる居場所に身を置くことができる。大野(田中泯)はクリーニング屋のおばさんに受け入れられる。太田(優香)は、恋愛(この場合、性愛と表現した方が適切かもしれないが)を通して月末父に受け入れられる。元受刑者たちが魚深での居場所を少しずつ獲得していく過程が繊細に描かれていた。

 

そして、そのなかでの栗本(市川実日子)の異質さ。独りでいるシーンが多く描かれていたように思う。しかし、直接的な人との繋がりはないにせよ、それは孤独ではなかったように思われる。動物の死を通して子どもと繋がったり、最後には植物の生命と繋がったりするといった体験をする。わかりやすい他者との繋がりだけではなく、動植物も一人の人間を支えてくれる居場所になっているという描写のように感じた。

 

杉山(北村一輝)は居場所の獲得に失敗する。同志を見つける嗅覚が優れているのか、仲間を獲得するべく最初に大野に対してアプローチを試みる。しかし相手にされず失敗。次に宮腰(松田龍平)に接近するが、これも大失敗して死に至る。薬物事犯の場合や重度のアルコール依存症者などでも、出所後や退院後につるむ相手を間違ってしまうと再発して死に向かうことがあるが、それと同じ構図が杉山にも当てはまるように思われた。

 

 そして問題の宮腰。宮腰は、月末・文という居場所を一時は獲得したように思われたが、結局は上手くいかずに終わってしまう。

出会ったその日の宮腰と月末のやりとり。宮腰は昼食後に突然自身の犯罪歴(の一部)について淡々と語り始める。そして月末に「普通に接してくれるなんて優しいですね。僕のこと怖くないんですか?」と尋ねるが、それに対して月末は「同じ人間だから」と答える。自分が受刑者であるということを知りながらも普通に接してくれる人。その人の口から発された、自分をまるごと受け入れてくれたかのような言葉。宮腰にとっては衝撃だっただろう。そして、生まれたての雛鳥が最初に目にした動く物体を親だと認識するように、ムショ帰りの宮腰にとっても、出所後最初に出会った人物の月末は非常に特別な存在だったことだろう。その後の宮腰は、まるで幼い子どもが親の後追いをするかのように、月末に対してべったりとくっ付きはじめる。そのなかで、月末と宮腰のあいだに、いびつな“友情”が生まれていく。バンドという居場所を獲得し、文という恋人をも手に入れる。

 

その、とても特別な存在の月末から、宮腰が元受刑者であったことを文に話してしまった、と打ち明けられる。自分にとって特別な存在である月末からの裏切り。そして、よりによって恋人の文に、自分が受刑者であるということを知られてしまう。

その後、目黒を殺したあと、宮腰は文と会う。宮腰は文に「やめて」と言われながらもキスを受け入れてもらえるが、車の中で手を出そうとすると完全に拒絶され、逃げられる。行為を拒絶されたのではなく、自分という人間そのものを拒絶されたと感じただろう。そして、人を殺すという気力も体力も消耗する行為をした後だからこそ、恋人に安心感を求め、そして自分が元殺人犯だと知っても受け入れられてもらえるのかを確認するために、これらの行動に及んだところもあったように思われる。

立て続けに起こった、特別な友達である月末からの裏切り、恋人である文からの拒絶。宮腰にとって大切な存在であろう二人からの裏切りと拒絶がなければ、人を殺す前に少しは思い止まることができたのではないだろうか。何の迷いもなく人を殺す累犯者の宮腰でも、友人や恋人との関係を構築することができていたら、少しは再犯の抑止力になったのではないだろうか。そんなことを考えてしまった。

 

また、宮腰が月末へ「友達として謝ってるの?それとも市役所職員として?」と尋ねる場面が二度ほどある。この宮腰の発言は、そもそも社会というものを信用していない、社会全体への不信感が根底にあるがゆえの発言であるような気もした。公的機関である役所職員は社会全体の象徴のような気もするので(これは私の偏見もあるかもしれないけれども)。

 

エンドロールでは役者陣の名前が次々に流れてくるなか、松田龍平の名前だけなかなか出てこず。スタッフらの名前もすべて流れてきたあとに、ようやく、たった一人で「松田龍平」の名が流れてくる。映画のなかでの人との繋がりの無さを暗に示しているのだろうかと、最後の最後に小さく感動した。

 

 

 

人間模様に限らず、全体を通して示唆に富んだ台詞が多く、印象的だった場面がいくつもある。

 

まず、宮腰が月末の家にあがりこむシーンでの「この歳からギターをはじめてもうまくいかないね」という発言。この言葉は、宮腰の生き方の暗喩であるようにも感じられた。この歳になって新しいものを、新しい生き方をはじめようとしても上手くいかない。人と関係を築くことも、犯罪から足を洗って仕事をしながら真っ当な人間として生きていくことも、試みてはみたものの上手くいかなかった。連続殺人犯・宮腰の弱さが垣間見えたように感じた瞬間だった。

 

次に印象的だったのが、月末と優香との病院の待合でのシーン。優香が首絞めセックスが原因で旦那を絞殺してしまったと話したのに対して、月末は「普通の人には理解できないですよ」とバッサリ斬る。月末が「普通」の人間であるということは番宣の段階からとことん強調されていたけれども、「普通」とは一体何なのか。一度「普通」から外れてしまった人間は、もう二度と「普通」のレールには乗れないのか。何もそれは受刑者に限ったことではなく、犯罪者の家族、精神科通入院歴のある人、あるいはLGBT当事者、両親の揃っていない家庭で育った人など、見方次第では「普通」から外れた人間なんてごまんといる。「普通」とそうではない人との線引きは一体どこなのか。物語中盤に大きな問題提起をぶち込まれたような気分になった。個人的には、多数派に安住する人間が発する「普通」という言葉は、マイノリティに属する人間をひどく傷つけるものだと思っている。私たちが持つ「普通」という感覚について、いま一度考え直せと言われているかのようだった。

 

 

Death is not the end ―死は終わりではない-」の描写について。ラストでは栗本が庭に埋めた動物の墓から、小さな芽が出る。死は単なる終わりではなく、そこから新しいものが生まれる可能性をも孕んでいるというメッセージを受け取った。

そして、最後の最後、月末と文の「「ラーメン」」のシーン。物語中盤では、月末がラーメンに誘っても文はその誘いに応じず、冷たく突き放す。しかし、ラストでは文から月末をラーメンに誘う。ここに、月末と文の関係の進展が読み取れる。この関係の進展は、宮腰の存在がなければ起こらなかったことであろう。宮腰の亡骸のうえに、月末と文とのあいだにおける新たな関係性が芽生えるという示唆を含んでいたように思う。

 

 

 

全体として、想像の余地を残してくれる描写も多かったため上映後に何度も反芻して楽しむことができ、とても満足感の高い作品だった。ただ、ラストがあまりに綺麗すぎて、正直残念だった。最後の最後に、突然「めでたしめでたし」のような雰囲気に切り替わり、心がついていかなかった。

受刑歴のある人間がそう簡単に「普通」を取り戻せるわけがないと思う。そして、生も死も、もっと血なまぐささをともなうものだと思う。屍の上にも花は咲けども、死体は臭うしウジは湧く。個人的には、ラストにもっと異臭を漂わせてほしかった。一度崩れた日常が、道を外してしまった人生が、そう簡単にうまくいってたまるか。最後の最後に腐った血の臭いが嗅ぎたかった。あまりにも綺麗にまとまりすぎていた気がした。

「待ち受けるのは希望か、絶望か」というところについては、きっと圧倒的な希望を描きたかったのだろうと思う。しかし、絶望と希望は相反するものではなく、絶望の暗闇のなかで見つける一筋の光こそが希望であるように思う。本作のラストでは、明るすぎる光に目が眩んでしまった。あまりにも美しすぎて、まやかしの希望のように思えてしまった。ぐちゃぐちゃで、どろっとしたものを、最後の最後に残したままにしてほしかった。

 

 

偉そうに長々とグダグダ書いたけど、感想は以上。「信じるか疑うか」以上に、「受容/排除」がテーマのように感じられた。最後が少し残念だという印象は強いけれど、散りばめられている台詞が示唆に富んでいるものが多く、想像の余地を残すような描写や演出も多々あり、とても満足感の高い作品だった。劇場で同じ映画を二回観るのは今まで全くしなかったけど、今回は二回目も観に行く予定。