映画 羊の木が面白かった。

羊の木が面白かった。

 

「社会的な側面を持つ映画」と唄われているけど、そんな一言で終わらせるには勿体なさすぎる。思うところが多々あったので垂れ流します。偉そうな文体で長々と書いてしまった。暇で暇で仕方のないときにでもお読みください。

 

以下、ネタバレ注意。

 

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設定について。「地方自治体が身元引受人となることで受刑者を仮釈放し、刑務所のコスト削減と地方の過疎化対策を図るという国家プロジェクト」(Filmarks記事より引用)という設定は、現実の延長線上のように感じられてとてもワクワクした。現実にも、刑務所から地域社会へのスムーズな移行や就労を支援するべく様々な取り組みがされているらしいので、すごくリアル(関連記事 京都刑務所と京都女子大が包括連携 学生から木工製品アイデア提供など - 烏丸経済新聞社説:上昇する再犯者率 地域で積極的な防止策を - 毎日新聞)。とても現実味があるおかげで、どうすれば安全を担保しながらこの政策を現実に適用させられるか、また現実との相違点についても少し考えてしまった。

大前提の全否定になってしまうけれども、何よりも、小さな町に殺人犯を六人も送り込むのは良くない。殺人犯なんて暴力性の高いであろう人たちを一気にぶち込んだら結果は目に見えている。窃盗とか交通犯罪とか薬物事犯とか詐欺罪とか、個人個人の有する犯罪歴をバラエティ豊かなものにしたら結果としても面白いものになるかもしれないな、そして少しは実現可能になるかもしれない、なんてことを思った。あと、受刑者を刑務所から社会へ移行させる役割の保護観察官とか保護司みたいな役割の人間が一切出てこなかったことに違和感を覚えた。これらを配置させたらより現実味が増したように思う。

 

…なんてことを偉そうに思いながらも、全体を通してめちゃくちゃ面白かった。

 

まず、緩やかに長く続く不穏さを演出する、ひとつひとつの音楽と描写。いつ何が起こってもおかしくないと感じさせる演出が最高だった。不安感を煽られすぎて常に最悪の場合を想定しながら観た。終盤の宮腰が月末の自宅に上がる場面では、宮腰がいつ月末家の包丁を持ち出して殺しにかかるのかとドギマギしたし、ラストののろろが引き上げられたシーンでは宮腰の水死体がくっ付いてくるのではないかとオドオドした。慢性的な恐怖に晒され続けると思考パターンがどんどんネガティブになっていくことを、身を以て実感した。最初から最後までのヒヤヒヤハラハラ感が絶品。

 

 

そして、不穏さを醸す演出に多少埋もれながらも、月末をはじめとする魚深市民らと元受刑者との関わりがとても繊細に描かれていたと感じている。特に、魚深の人たちとの関わりのなかで元受刑者らが「受け入れ」られるか否かについての描写がとても丁寧だったように思う。

 

福元(水澤紳吾)は、早い段階で同じ床屋店主に受け入れられる。受刑者だということがバレたかもしれないと怯えるが、同じ元受刑者の立場である店主との出会いにより、自身の犯罪歴をも受け入れてもらえる居場所に身を置くことができる。大野(田中泯)はクリーニング屋のおばさんに受け入れられる。太田(優香)は、恋愛(この場合、性愛と表現した方が適切かもしれないが)を通して月末父に受け入れられる。元受刑者たちが魚深での居場所を少しずつ獲得していく過程が繊細に描かれていた。

 

そして、そのなかでの栗本(市川実日子)の異質さ。独りでいるシーンが多く描かれていたように思う。しかし、直接的な人との繋がりはないにせよ、それは孤独ではなかったように思われる。動物の死を通して子どもと繋がったり、最後には植物の生命と繋がったりするといった体験をする。わかりやすい他者との繋がりだけではなく、動植物も一人の人間を支えてくれる居場所になっているという描写のように感じた。

 

杉山(北村一輝)は居場所の獲得に失敗する。同志を見つける嗅覚が優れているのか、仲間を獲得するべく最初に大野に対してアプローチを試みる。しかし相手にされず失敗。次に宮腰(松田龍平)に接近するが、これも大失敗して死に至る。薬物事犯の場合や重度のアルコール依存症者などでも、出所後や退院後につるむ相手を間違ってしまうと再発して死に向かうことがあるが、それと同じ構図が杉山にも当てはまるように思われた。

 

 そして問題の宮腰。宮腰は、月末・文という居場所を一時は獲得したように思われたが、結局は上手くいかずに終わってしまう。

出会ったその日の宮腰と月末のやりとり。宮腰は昼食後に突然自身の犯罪歴(の一部)について淡々と語り始める。そして月末に「普通に接してくれるなんて優しいですね。僕のこと怖くないんですか?」と尋ねるが、それに対して月末は「同じ人間だから」と答える。自分が受刑者であるということを知りながらも普通に接してくれる人。その人の口から発された、自分をまるごと受け入れてくれたかのような言葉。宮腰にとっては衝撃だっただろう。そして、生まれたての雛鳥が最初に目にした動く物体を親だと認識するように、ムショ帰りの宮腰にとっても、出所後最初に出会った人物の月末は非常に特別な存在だったことだろう。その後の宮腰は、まるで幼い子どもが親の後追いをするかのように、月末に対してべったりとくっ付きはじめる。そのなかで、月末と宮腰のあいだに、いびつな“友情”が生まれていく。バンドという居場所を獲得し、文という恋人をも手に入れる。

 

その、とても特別な存在の月末から、宮腰が元受刑者であったことを文に話してしまった、と打ち明けられる。自分にとって特別な存在である月末からの裏切り。そして、よりによって恋人の文に、自分が受刑者であるということを知られてしまう。

その後、目黒を殺したあと、宮腰は文と会う。宮腰は文に「やめて」と言われながらもキスを受け入れてもらえるが、車の中で手を出そうとすると完全に拒絶され、逃げられる。行為を拒絶されたのではなく、自分という人間そのものを拒絶されたと感じただろう。そして、人を殺すという気力も体力も消耗する行為をした後だからこそ、恋人に安心感を求め、そして自分が元殺人犯だと知っても受け入れられてもらえるのかを確認するために、これらの行動に及んだところもあったように思われる。

立て続けに起こった、特別な友達である月末からの裏切り、恋人である文からの拒絶。宮腰にとって大切な存在であろう二人からの裏切りと拒絶がなければ、人を殺す前に少しは思い止まることができたのではないだろうか。何の迷いもなく人を殺す累犯者の宮腰でも、友人や恋人との関係を構築することができていたら、少しは再犯の抑止力になったのではないだろうか。そんなことを考えてしまった。

 

また、宮腰が月末へ「友達として謝ってるの?それとも市役所職員として?」と尋ねる場面が二度ほどある。この宮腰の発言は、そもそも社会というものを信用していない、社会全体への不信感が根底にあるがゆえの発言であるような気もした。公的機関である役所職員は社会全体の象徴のような気もするので(これは私の偏見もあるかもしれないけれども)。

 

エンドロールでは役者陣の名前が次々に流れてくるなか、松田龍平の名前だけなかなか出てこず。スタッフらの名前もすべて流れてきたあとに、ようやく、たった一人で「松田龍平」の名が流れてくる。映画のなかでの人との繋がりの無さを暗に示しているのだろうかと、最後の最後に小さく感動した。

 

 

 

人間模様に限らず、全体を通して示唆に富んだ台詞が多く、印象的だった場面がいくつもある。

 

まず、宮腰が月末の家にあがりこむシーンでの「この歳からギターをはじめてもうまくいかないね」という発言。この言葉は、宮腰の生き方の暗喩であるようにも感じられた。この歳になって新しいものを、新しい生き方をはじめようとしても上手くいかない。人と関係を築くことも、犯罪から足を洗って仕事をしながら真っ当な人間として生きていくことも、試みてはみたものの上手くいかなかった。連続殺人犯・宮腰の弱さが垣間見えたように感じた瞬間だった。

 

次に印象的だったのが、月末と優香との病院の待合でのシーン。優香が首絞めセックスが原因で旦那を絞殺してしまったと話したのに対して、月末は「普通の人には理解できないですよ」とバッサリ斬る。月末が「普通」の人間であるということは番宣の段階からとことん強調されていたけれども、「普通」とは一体何なのか。一度「普通」から外れてしまった人間は、もう二度と「普通」のレールには乗れないのか。何もそれは受刑者に限ったことではなく、犯罪者の家族、精神科通入院歴のある人、あるいはLGBT当事者、両親の揃っていない家庭で育った人など、見方次第では「普通」から外れた人間なんてごまんといる。「普通」とそうではない人との線引きは一体どこなのか。物語中盤に大きな問題提起をぶち込まれたような気分になった。個人的には、多数派に安住する人間が発する「普通」という言葉は、マイノリティに属する人間をひどく傷つけるものだと思っている。私たちが持つ「普通」という感覚について、いま一度考え直せと言われているかのようだった。

 

 

Death is not the end ―死は終わりではない-」の描写について。ラストでは栗本が庭に埋めた動物の墓から、小さな芽が出る。死は単なる終わりではなく、そこから新しいものが生まれる可能性をも孕んでいるというメッセージを受け取った。

そして、最後の最後、月末と文の「「ラーメン」」のシーン。物語中盤では、月末がラーメンに誘っても文はその誘いに応じず、冷たく突き放す。しかし、ラストでは文から月末をラーメンに誘う。ここに、月末と文の関係の進展が読み取れる。この関係の進展は、宮腰の存在がなければ起こらなかったことであろう。宮腰の亡骸のうえに、月末と文とのあいだにおける新たな関係性が芽生えるという示唆を含んでいたように思う。

 

 

 

全体として、想像の余地を残してくれる描写も多かったため上映後に何度も反芻して楽しむことができ、とても満足感の高い作品だった。ただ、ラストがあまりに綺麗すぎて、正直残念だった。最後の最後に、突然「めでたしめでたし」のような雰囲気に切り替わり、心がついていかなかった。

受刑歴のある人間がそう簡単に「普通」を取り戻せるわけがないと思う。そして、生も死も、もっと血なまぐささをともなうものだと思う。屍の上にも花は咲けども、死体は臭うしウジは湧く。個人的には、ラストにもっと異臭を漂わせてほしかった。一度崩れた日常が、道を外してしまった人生が、そう簡単にうまくいってたまるか。最後の最後に腐った血の臭いが嗅ぎたかった。あまりにも綺麗にまとまりすぎていた気がした。

「待ち受けるのは希望か、絶望か」というところについては、きっと圧倒的な希望を描きたかったのだろうと思う。しかし、絶望と希望は相反するものではなく、絶望の暗闇のなかで見つける一筋の光こそが希望であるように思う。本作のラストでは、明るすぎる光に目が眩んでしまった。あまりにも美しすぎて、まやかしの希望のように思えてしまった。ぐちゃぐちゃで、どろっとしたものを、最後の最後に残したままにしてほしかった。

 

 

偉そうに長々とグダグダ書いたけど、感想は以上。「信じるか疑うか」以上に、「受容/排除」がテーマのように感じられた。最後が少し残念だという印象は強いけれど、散りばめられている台詞が示唆に富んでいるものが多く、想像の余地を残すような描写や演出も多々あり、とても満足感の高い作品だった。劇場で同じ映画を二回観るのは今まで全くしなかったけど、今回は二回目も観に行く予定。